【五大湖のふところミシガンで暮らす】
鳩山 幹雄  

サモアの暮らしにすっかり慣れたころ、サモアンダンスを学校で披露する娘
サモアの暮らしにすっかり
慣れたころ、サモアンダンスを
学校で披露する娘
アメリカの高校生活を満喫する長女
アメリカの高校生活を満喫する長女
友だちのパーティに招待されて
友だちのパーティに招待されて



第42回 長女が晴れて高校卒業(前編)〜振り返れば海外暮らし6年


始まりは1997年7月

18歳の長女がいよいよハイスクールを卒業する。海外暮らしを始めて早6年、振り返ればあっという間の出来事だったようにも感じるが、子どもたちにとっては辛く長く感じたこともあったに違いない。

1997年7月の日本脱出は、子どもたちの目には親の気まぐれぐらいにしか映らなかったかもしれない。長女がちょうど中学1年生に上がるという4月1日の朝、子どもたちは我が家のサモア移住計画を知らされた。その前年のエープリル・フールには、「温水プールに連れてって」という以前からの子どもたちのリクエストに応えて、「ようし、今からプールに行くぞ」と言って家を出ると、そのまま空港へ直行し、サイパンまで出かけた。

そんな親の言うことだから、子どもたちはこのサモア移住計画が果たしてエープリル・フールのジョークなのかどうかの判断もしばらくつかないでいたようだ。

日本の中学にほんの3カ月ほど通っただけで娘はサモアの中学校に転校することになり、言葉も文化もろくに分からず、さらに生活レベルや衛生基準も格段に異なる環境に突然放り込まれた。おそらく最初の2年近くは楽しみよりも苦労のほうが勝っただろう。 ほんの1年かせいぜい2年くらいのつもりだった当初の計画が大幅に変更になったのも、そんな予想以上のカルチャー・ショックが影響している。子どもたちが、本当にサモアの暮らしを楽しむまで順応しなければ、サモアでの生活がマイナスに影響してしまう。そう考え、せめて日々の生活を楽しく感じられるまでは暮らし続けることを決心した。

やがて長女は高校に進学、言葉の壁を克服するにしたがい成績も向上した。3年目に入り10年生になると、長女は学年で首席を争うまでになった。いつの間にか子どもたちはみな我が家のサモア暮らしが変わらず続くことにとくに疑問を抱くこともなくなった。

サモアの日々が、ごく当たり前の日常になったからこそ、サモアを離れるという選択も加わった。子どもたちの英語力の向上を含め、種々の要素を吟味した結果、海外生活を続行することに決め、2001年夏、ミシガンへやってきた。

アメリカの生活にも順調に適応

8月末の新学期とともに公立のハイスクールに転入。娘は日本の高校2年生にあたる11年生としてスタート。サモアでもいちおう授業は英語だったが、外国語として英語を扱うサモアと、英語を母国語とするアメリカでは、発音やアクセントだけでなく、授業内容も当然異なる。果たして苦労なく適応できるかどうか親として若干不安ではあった。が、子どもたち4人とも意外にもスムーズにミシガンの生活に溶け込んだ。

考えてみれば未開の地サモアでの暮らしに溶け込むことができれば、たいていの暮らしに馴染むことができても不思議ではない。成績も心配には及ばず、娘は毎学期成績優秀生に選ばれるまでになった。

息子たちは相変わらずスクールバスで登下校を繰り返したが、交友を広めた娘は、下校時はスクールバスではなく自家用車通学の友人にちゃっかり送ってもらうようにもなった。言葉もすっかりミシガン英語が身についた。服装もこちらの女子高生に人気のある、へその出る腰の浅いベルボトムのジーンズを愛用、平気で裾を引きずって歩き回るようになり、外国人であることを過剰に意識することもなくなった。

とくに深刻な問題に直面することもなく1年が過ぎ、昨年の秋には12年生、日本で言う高校3年生に進級、美術がお気に入り科目となり、毎日ステンドグラスや人形を作ったり、水彩画を描いたり、陶芸の真似事をしたり……と、レパートリーを広げた。時折持ち帰る作品は、家族の容赦ない批判を浴びたが、とくに気にする様子もなく、毎日楽しそうな高校生活を送った。

高校生といっても、特別に受験勉強などしなくても今まで同様ごく普通に通学し、それなりの成績を収めてさえいれば苦労なく大学へも進学できるので、受験を控えた日本の高校3年生と比べたらまるで天国のような伸び伸びとした高校生活を送るうちに9カ月が経過、娘の卒業式がいよいよ3日後に迫った。

1985年に長女が産声を上げて以来すでに18年の歳月が流れたとはとても信じ難い。もっともっと充実した日々を送る努力もできたかもしれない。だが、娘がこの18年間、入院するほどのケガも病気もせずに無事高校を卒業するまでに成長したことを、親として素直に喜ぶことにしよう。



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